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#-3 土と共に育つ

私の祖父(1884年‐1956年)はドイツ帝国軍の陸軍大将の家に生まれ、8人兄弟の末っ子だった。彼は第一次世界大戦の直前に単身でドイツから逃亡した。40歳代前半に当時18歳の祖母と結婚し、1933年に父が生まれた。1938年に、私が育った農場をオレゴン北西部に購入した。父は生涯をその農場で暮らした。父は子供の頃、祖父が鋤(すき)を引いている馬の後ろをついて歩いている間、その馬に乗っていたそうだ。

だが、父は馬が好きではなかった。十代の頃、父は中古のフォード9Nトラクターを購入した。そのトラクターは今でもオレゴンの家にある。私は10歳になる前からそのトラクターに乗っていた。父は一連ボトムプラウ(鋤)やその他の道具を、毎年行う畑の準備のためにトラクターに連結し、母は私たちに種の蒔き方を教えてくれた。

私たちの畑の土は固く、ごつごつしていて粘土質だった。父のプラウは光沢のあるカーブしたスチールブレードで、地表30㎝を持ち上げて反転させることができた。反転させた後には茶色に輝く巨大な土の塊が残り、それを小型のウォークビハインド型ガソリン式ロータリー耕運機で砕いてやらなければならなかった。私はその耕運機で畑を耕すのが嫌いだった。機械が左右に揺れたり、傾くのをコントロールするのが大変だったからだ。その耕運機はいつも畝間から出て、耕運爪を空回りさせたまま、地面を横切って行こうとした。

町を流れる川の反対側には母方のいとこがいて、彼はリヤロータリー式のMTD社製Troy-Biltロータリー耕運機を持っていた。そっちの方がはるかに協力的だった。彼の畑の土は細かくて、シルト(粘土より土粒子が粗く、砂よりは細かい)質だった。彼はビニールハウスを持っていたし、植物を育てるのがうまかった。彼の手にかかったものは何でも大きくよく育った。私たちの分厚い粘土質の土の塊は、どうにかカボチャや人参、トウモロコシ、ラディッシュ、豆、その他の野菜を育てはしたが、川向うの畑のようではなかった。私は、ああいう土が欲しかった。粘土やシルト、砂など、土の構成成分を表す言葉を漠然と認識していたが、土には主に「良い土」と「悪い土」があると、簡単にしか見ていなかった。

毎年、土を耕す前に家畜の糞を畑にまいていた。家には羊やヤギ、牛、うさぎ、そして馬がいた。すべての動物のエサやりとヤギの乳しぼりは、私の日課に入っていた。定期的に、それぞれの納屋の糞を掃除しなければならなかったのだが、臭いので嫌だった。唯一、飼っていて良かったと思えた動物は馬だった。その馬はアメリカンクォーターホースとモーガンの雑種だった。モーガンは輓馬(ばんば)で、600kgもの巨体で首が太く、体高は1m70cmもあった。 我が家の馬は私を振り落とすのが好きだったが、馬に乗るのはいつも楽しかった。そして4-H ホースクラブ(青少年育成のためのプログラム)で過ごした時間は、とても良い思い出となっている。40年以上経った今、私は東京で、私たちの生活を支える生きた「土」について、これまでほとんど知らなかったことを痛感している。ここの読者の皆さんが、私の発見の旅に参加していただけたら幸いです。

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#2- アメリカンファームボーイ、東京で群れを集める

群れといっても、正確にはミミズの群れだ。私は1960年代に農場で育った。周囲の山で何時間も馬に乗って楽しんでいたが、通りが舗装されている都会で暮らすことを夢見ていた。スケートボードは砂利道じゃ進まないからね。その50年後、私はアスファルトの都会で暮らすことになるが、「スケートボード」はずい分年季が入ってしまった。

ここに移住してくるまでには、様々なことを経てきた。私は南ユタ州で360エーカーの農場がある農業高校に4年間通い、その後の4年間を沖縄の山の中にある100エーカーの農場で過ごした。そこで私は日本語が流ちょうに話せるようになった。父は自動車整備士だったので、私の関心はいつでも農業機械に引き付けられた。なので、アメリカに帰ってからの最初の10年間は車体修理工になり、その後の15年間はIT関係(コンピューターとネットワークのサポート)の仕事をしていた。29歳の時に大学に入り、それから29年間、応用言語学と日本語の二つを専攻した。ポートランド州立大学の学位を取得する数年前に、私は日本に戻った。そして医科大学病院で言語学者として働き始めた。農業に戻ろうなどとは思いもしない。少なくとも農家には。

私は多くの人で混雑した通りや電車が好きだ。この人たちはみんなどこからやって来たんだろうと想像したり、もっと知り合えたらいいのにと思う。幸い私には家が二つある。都内の賑やかな駅から歩いてわずか3分の、ジャングルのように密集したコンクリートの高層タワーマンションで生活するときもあるが、ほとんどの時間を田んぼからわずか1分の、夜になるとカエルが大合唱する田舎の家で過ごしている。都会にいると、経済が崩壊したらみんなどうやって食料を見つけるんだろうと思うが、田舎では周りに小規模農家がたくさんある。そのほとんどが高齢の人たちで営まれている農家だ。私は農家の人たちの近くにいる方が安心するし、周りに畑がたくさんある方が落ち着く。このことがこの数年間私を、近隣の農家の人たちや日本の農業、そして食料安全保障全般に、直接何か貢献する方法はないだろうかという思いに駆り立ててきた。そんな時、新型コロナウィルスの感染が始まった。パンデミックは私を行動へと突き動かした。地元の有機栽培家は、「みんな自分で野菜を作るべきだ」とこぼしたが、別の声が、「私のように単純に野菜を作れない、あるいは作りたくないという人もたくさんいるけれど、台所の生ごみやコンポスター(生ごみを堆肥にかえる容器)、それにミミズを使って作った土を他人(ひと)にあげて喜ぶ人たちだっている。」と私に言った。それ以来、ミミズ養殖に関する本や記事を何時間も読み、ウェブで調べ、動画を見、計画を立てている。そうして習得した理論的知識と実体験を結びつけることによって、私のミミズ養殖の学習過程全般を加速させようとしている。2020年5月に、私は10個以上のシマミミズのコンポスターを様々な飼育環境に設置した。そして本を読み進める間に、シマミミズの飼育に関して私が既に知っているすべてのことを実際に行っている。このシリーズで、今後も随時お伝えします。

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#1-シマミミズ

見えざる家畜

私は1960年代に農場で、羊やヤギ、馬、牛、犬、そしてたくさんの猫と共に育った。当時我が家では性別による男女間の労働分担があり、3人の姉妹たちが家事をする一方で、兄と私は外での作業をしていた。皿洗いは「女の仕事」なので絶対にやりたくなかったが、大量の馬や牛の糞を納屋から外の糞の山に放るのは、皿洗いよりましとはいえ楽しくはなかった。その糞は発酵させたのち、ミミズが入って来られるぐらいに冷めるまで数か月放置された。そうして出来た堆肥を畑に入れて耕しても、ミミズのことなど全く考えもしなかった。1980年頃沖縄で、私は初めて意図的にミミズを飼育するという考えに出会った。友人がミミズを見せてくれると、彼の農場に招待してくれたとき、私は農業高校で学生たちを指導していた。彼は無造作に重ねた段ボールを持ち上げ、その中や下にいるたくさんのミミズを見せてくれた。その後の20年間はミミズの養殖に積極的にはなれなかったが、あの時脳裏に焼き付いた光景に、私は今でも導かれている。

20年後、シマミミズは数年間雨の中に放置されていた、びしょびしょのストローベイル(直方体に圧縮したわらのブロック)に住み着いた。ミミズを捕獲するために、私はツーバイフォーの角材で作った2mx60cmの長方形の枠の下に、6mmのワイヤーメッシュを張ってトレーを作り、それを3~4台重ねて一式造った。それぞれのトレーの深さは9㎝だった。ミミズが逃げていかないよう地面にベニヤ板を敷いて、その上にトレーを設置した。そしてトレーと同じ高さに細長く切った段ボールをぎっしり並べてトレーに詰めた。ミミズを上の段のトレーに土と一緒に入れ、台所からでる生ごみを重ねて置いた。その後10年間、ミミズは私たち家族4人が出した生ごみをすべて食べた。上の段のトレーがいっぱいになると、3つ目のトレー、時には4つ目のトレーも付け足した。そして数か月ごとに、下のトレーに溜まったミミズの糞を取り出して庭に捨てた。

私はそれとなく、ミミズやミミズの糞、そしてワームティーと呼ばれる液肥を含め、売れる見込みのあるものが得られるかもしれないと気づいていた。でも、どうやったらそれらを得られるのか知らなかったし、忙しくて調べることも出来なかった。夏は直射日光が当たらないようミミズの入ったトレーを覆っておいたが、冬はそのまま凍えさせていた。ミミズが酸欠状態にならないようにと何かしたこともなければ、ミミズの飼育に関する本も全く読まなかった。だが、生ごみが全部トレーの中に沈んでいき、なくなるのは本当に嬉しかった。すぐそばにあった、私が切った桜の木の切り株は芽吹き、新しい幹は直径20cmを超えるまで育って、5~6年のうちに隣の家よりも高くなった。そしてかつてないほどの良いサクランボが実った。ワームホールを抜ける旅の続きを、どうぞお楽しみに。