群れといっても、正確にはミミズの群れだ。私は1960年代に農場で育った。周囲の山で何時間も馬に乗って楽しんでいたが、通りが舗装されている都会で暮らすことを夢見ていた。スケートボードは砂利道じゃ進まないからね。その50年後、私はアスファルトの都会で暮らすことになるが、「スケートボード」はずい分年季が入ってしまった。
ここに移住してくるまでには、様々なことを経てきた。私は南ユタ州で360エーカーの農場がある農業高校に4年間通い、その後の4年間を沖縄の山の中にある100エーカーの農場で過ごした。そこで私は日本語が流ちょうに話せるようになった。父は自動車整備士だったので、私の関心はいつでも農業機械に引き付けられた。なので、アメリカに帰ってからの最初の10年間は車体修理工になり、その後の15年間はIT関係(コンピューターとネットワークのサポート)の仕事をしていた。29歳の時に大学に入り、それから29年間、応用言語学と日本語の二つを専攻した。ポートランド州立大学の学位を取得する数年前に、私は日本に戻った。そして医科大学病院で言語学者として働き始めた。農業に戻ろうなどとは思いもしない。少なくとも農家には。
私は多くの人で混雑した通りや電車が好きだ。この人たちはみんなどこからやって来たんだろうと想像したり、もっと知り合えたらいいのにと思う。幸い私には家が二つある。都内の賑やかな駅から歩いてわずか3分の、ジャングルのように密集したコンクリートの高層タワーマンションで生活するときもあるが、ほとんどの時間を田んぼからわずか1分の、夜になるとカエルが大合唱する田舎の家で過ごしている。都会にいると、経済が崩壊したらみんなどうやって食料を見つけるんだろうと思うが、田舎では周りに小規模農家がたくさんある。そのほとんどが高齢の人たちで営まれている農家だ。私は農家の人たちの近くにいる方が安心するし、周りに畑がたくさんある方が落ち着く。このことがこの数年間私を、近隣の農家の人たちや日本の農業、そして食料安全保障全般に、直接何か貢献する方法はないだろうかという思いに駆り立ててきた。そんな時、新型コロナウィルスの感染が始まった。パンデミックは私を行動へと突き動かした。地元の有機栽培家は、「みんな自分で野菜を作るべきだ」とこぼしたが、別の声が、「私のように単純に野菜を作れない、あるいは作りたくないという人もたくさんいるけれど、台所の生ごみやコンポスター(生ごみを堆肥にかえる容器)、それにミミズを使って作った土を他人(ひと)にあげて喜ぶ人たちだっている。」と私に言った。それ以来、ミミズ養殖に関する本や記事を何時間も読み、ウェブで調べ、動画を見、計画を立てている。そうして習得した理論的知識と実体験を結びつけることによって、私のミミズ養殖の学習過程全般を加速させようとしている。2020年5月に、私は10個以上のシマミミズのコンポスターを様々な飼育環境に設置した。そして本を読み進める間に、シマミミズの飼育に関して私が既に知っているすべてのことを実際に行っている。このシリーズで、今後も随時お伝えします。
「#2 – American Farm Boy Rides Herd in Tokyo」への1件の返信
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